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にじのはなのほし

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アダムとエバが失った楽園を回復できるようにと願いを込めて“復楽園”としました。地上の天国・楽園を目指しつつ手探りしながらでも前向きに過ごす日々です

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その日は・・・

4時半に目覚ましをかけ、5時半前には家を出る。
集合時間までに集まっていたのは6,7人か・・・。
結局15分遅れで出発。 「世界の宗教」というクラスの一環で、30名のクラスメートと教授と一緒に、寺院を回る。

初めに見学したのがヒンズー教の寺院。
真ん中には仏教。
そして最後はイスラム教の集会所に行った。

クラスで勉強したことを講話で耳にしたのが“宗教”を実感させた。

宗教という名の下に戦いが絶えない。
9・11やオ○ム真理教など、宗教がらみの惨事もある。

3つの世界宗教にほんのわずかながら触れてみて実際に肌で感じたのは、それぞれ、本当に熱心に自分の信じるものを追求し追究しているということと、他宗派同士が互いを尊重しているということ。

一般に“宗教”と聞けば構えられてしまうが、人々にそうさせるのは、実は宗教ではなく、人間のエゴなのではないかと結論付けるのが自然だと思わされた。

ヒンズー教では、神のいる天に結びつくことを究極の目的としている。そのためには、清められ生まれ変わっていく必要があるが、手段としては「よい行い」を重ねるということだった。
また、神を知るために知能が与えられているが、訓練によってそれを高め、瞑想や施しを通して自らを捧げることにより、神へと至ることができると教わった。

hindu
(ヒンズー教)


仏教では、他人に奉仕するという目的のためにどの宗教も存在しており、そのためには仏教の教える教えや瞑想によって、自らを備えることが必要であると学んだ。
八重の高潔な道(Eightfold Noble Path)が特に目立った教えであり、正しい「理解・考え・話し方・行動・暮らし・努力・配慮・集中」(Right Understanding, Thought, Speech, Action, Livelihood, Effort, Mindfulness, Concentration)を通して訓練することにより、世の苦しみを克服し、いずれは皆が仏陀になれることを望んでいるとのことだった。

buddhism
(仏教)



イスラム教では、アラーを信じ預言者に従うことを至上とする、との一言に尽きるだろうか。印象としては3つの宗教の中でもっとも忠誠を求められている感じであったが、1日に5度祈るとか、生涯に一度はメッカへの巡礼をしなければならないとか、ムハンマドが行ったり言ったりしたこと以外をしてはならないといったような具体的な言及がなされていた。
学ばされたのは、「口で言うことは心が伴っていなければ、いくら信じると告白しても良い行いはあらわれない」ということ。それから印象的だったのは「犯罪者やテロリストはお断り」という張り紙がしてあったことだ。
特にテロリストという言葉は、9・11のような活動は一般のイスラムには無縁であるとのメッセージのような気がして印象的だった。また同じ掲示板にはムハンマドの言葉が記されていた。

“A man is learned as long as he is searching for knowledge, but if he thinks he knows everything, then he is ignorant.”

islum
(イスラム教)


転じてキリスト教はどうだろうかと考えた。
どの宗派とも共感できる点がたくさんあった。
教えられることもあれば、自分の信じていることをさらに確信させられることもあった。
ただ、他の宗派に無いなぁと思わされたことは、「神が人間になる」というGoodNewsだ。
キリスト教用語で言えば「受肉」ということになるが、易しく言えば、
愛の神様が天という高い所からわたしたちを愛し、恵んでくださるのでなくて、わたしたちと同じ立場になって、同じ苦しみを体験し、死にさえも勝利し、やがてわたしたちを神のもとへ連れて行ってくださるということだ。

まぁ、御伽噺のようなものかもしれないが、少なくともこのような「謙遜さ」には本当に考えさせられるのである。

わたしたちを謙遜にするものが宗教と言ったら単純すぎるだろうか。
だが決して自分たちの信念に基づいて(たとえば「聖戦」というような、もっともらしい名を借りて)他人を攻撃するものを宗教とは呼ばないのだろうし、呼んではならないのではないか。

「他者に奉仕する」とか、「施しをする」とか、「思いを清める」といったようなことは皆、謙遜にならなければ成り立たないような気がする。

宗教と聞いて、かまえられてしまうことのなくなる日が来るとすれば、それは“宗教家”たちが皆(指導者も一般信者も)謙遜になった時なのかもしれない。



ところで、弾いているときにギターを取られたといって息子に腹を立てているようでは、にじのはな、まだまだ謙遜にはほど遠いですな。

みなさんは「謙遜」という言葉になじみがありますか、それとも無縁でしょうか。参考までに色々お聞きしてみたいものです。

聖書のことば。
「貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。」(箴言16:19)

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